written by Mitsuteru Takeuchi

  • Posted by: futow
「記譜の楽しみ」

私が最初に作曲を始めたのは非常に安易で単純な理由からである。まだ即興演奏をしていた頃、当時の音楽的状況の影響というか、「off site composed music series」などのCDを聴いて、おもしろい、こんなやり方もあるんだ、と触発されて、自分でもやってみたいと興味を持ったからだ。言い方を変えればただ真似てみたのだ。

即興演奏活動をしばらくして、だんだんと即興演奏が出来なくなっていった。私の演奏は電気的な音を素材として扱ったもので、音の質感を追求したものだった。演奏するということはすなわち決められた時間内にその音をどう配置していくことなのか、と考えた。そこから音楽の構造的な部分に興味を持ちだして、それならと構造だけを突き詰めた作曲を始めた。しかし、そのことと即興演奏が出来なくなったのはあまり関係がない気もする。そもそものパフォーマンスすることが嫌になったのが大きいような気がする。構成を考えながら、機材を操作しつつ、自分の音や周りの音を聴き、なおかつ時間の計算などもし・・・ということはとてもじゃないが一遍に出来なかったし、やりたくなかった。このあたりのことは色々とありそうだが、また項を改めることにする。

しばらくして、作曲作品のコンサートシリーズを始めることになった。この頃から作曲に対する考え方も変わってきたと思う。まず一番悩んだのが、自分の考えを演奏者にどう伝えるか、ということだった。まず最初に考えたのは楽譜の作り方だった。どういう記譜をするか。これは「作曲とは何か?」という自問の解決の糸口になっているような気がする(この頃はそもそも、何を作曲したいのか、どんな音楽(作品)にしたいのか、コンセプトの部分はまだ不明瞭だったように思う)。つまり、何をどう伝えたらこれが起こるのか。音楽を作る上で何が必要なのか、必要でないのか。必要なものだけをどう具現化して、どう提示するか。この問題を自分なりに解いていったのが、最初の回のために作曲した「Long Bow」だった。私はケージの定義した概念、「構造、方法、形態、素材」のその意味だけを残して自ら選ぶことを、偶然に決められることを、放棄した/したかった。そのようにして「発音のタイミング、音程は自由にしてください」というような指示を記譜することにした。演奏者自身に決めてもらいたかったのだ。そのようにしても自ずと音のある部分と無い部分が浮かび上がるのではないかと思った。音はなんでも良かった。

ここで、「Long Bow」のコンサート時のことについて小田寛一郎が指摘した文章を引用する。

みつ君の曲はタイトル通りロングトーンによる構成。それぞれの音の関わり方が良い意味でさっぱりしていたように思う。嫌味がないというか。飽きそうで意外に飽きない。配布されたそれぞれの曲紹介のみつ君の文章に「これは作曲行為から、作家性からの回避である」とあったが、ある形式のみの楽曲であってもそれが作曲行為から、また作家性からの回避であることにはならない。なぜならその形式がいかなるものであれ、それを定めたこと、選んだこと自体が恣意的な作曲行為でありその行為は作家に帰属するものだからだ。どんな些細なことでも自分で選んだことは自分に属してしまうものでありどんな重大なことでも自分で選んでいないことは自分には属さない。こういう風にどんどん範囲を拡大すると矛盾に突き当たる。ある問いをある限定された範囲の中だけで考えることに違和感を感じるのは、あまりに厳密になり過ぎているからだろうか。と、ここまで書いてきてみつ君がその矛盾を意識していなかったわけではなくてあえてその地点に留まって表現の可能性を探っていて(実はそうするしか道はないのかもしれないのだが)ひょっとするとただ単に言葉としての表現の問題かもしれないと思ってきた。「これは作曲行為、作家性に関する難問についてのあるひとつの思考であり、私は楽曲のある形式だけを設定することにした。」とでも書いてあればそれはそれとして納得していただろう。それはそれとして、というのはあまり良いことではないがそれはそれとしてそういう風に納得していただろう。

「これは作曲行為、作家性に関する難問についてのあるひとつの思考であり、私は楽曲のある形式だけを設定することにした。」そういうことである。そういう意味のようなことを書きたかった。回避といっても全てから出来るわけではない。それは指摘されているように無理だろう。たとえ少しでも自分がなにがしかによって決定することから遠くに行きたかった。自分が何かを決定することなんて無意味だと思った。それは他者、作家性についても同じだった。自分が何かを決定するにあたり他者を参照したくはなかったのだ、それはひとりの作家として当然のことであるが。自分すら参照したくなかった。それは作家性というものを一度リセットして、自分から他者から離れたものにしたかった。偶然性というのもよくわからず、自分で決めているような気がした。形式を決めたことについては、これは決めてないとも言える。なぜなら、それは音楽なのだから。音楽のコンサートで、音楽の作曲ということなのだから、その時点でもうすでに決まっているのである。そういう意味においては「回避である」と言い切っても間違いではない。もう一度言うが、全てからではなく、少しでも少しでも離れることへ挑戦したのである。

ここから指示書による楽譜が私の定番になった。思い浮かんだコンセプトを言葉にする、これが難しいのだが、しかし楽しい。書いていくうちに提示の仕方によって意味が変わったり、拡がりをもったりすることもある。タイトル決めも難しい。難無く決まるときもあるが、無題のこともある。「Long Bow」にしろ、何を持ってして「Long」なのか。今となっては改題したいが、別の意味で「大ボラ」というのもある。ある意味作曲しなかったのだから、ホラというのもありかもしれない。簡潔に美しく書けたときの楽譜はそのものだけでもアートだと思う。

Manfred Werderの作品に「20051」というものがある。その楽譜には「場所、時間、(音)」とだけ書いてある。単語だけで書いてある。何をどうしろという指示でもない。しかしその言葉から深く考えさせられ、それは十分に楽譜となっている。三つの言葉だけで音楽を表した、シンプル極まりない楽譜だと思う。いつかまたマンフレッドと楽譜や記譜について話してみたい。きっと楽譜やタイトルに対しての哲学を持っているはずであろうから。

(2011.1.11に加筆修正した)

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