written by Kinya

  • Posted by: futow
「com+positionからの挑戦状」

『さっぱりわけが分からない』か『いや、実に面白い』か。
江崎 將史、木下 和重、竹内 光輝による作曲作品コンサートシリーズ『com+position』を体験してみれば、感想はたぶんこの真っ二つに分かれるだろう。

演者の一人、木下君と知り合ったのは高校の時だから、かれこれ二十年来の付き合いになる。その長い歳月の中で、折に触れ彼の音楽の変遷を見つめてき た私にとっては、『com+position』における音楽スタイルが、様々な思索や試行錯誤といった道程を経てたどり着いたものであることは明白である し、またそのことに深い感慨を覚えずにはいられない。彼とは何度も同じステージに立ち、デモテープを作り、やがて彼は即興を主体とした実験的音楽、私は ポップミュージックという、一見対極の方向へ進むことになるのだが、"袂を別った(たもとをわかった)"という意識は不思議と全くない。表層的なスタイル は真逆であっても、根底に流れる音楽への愛、衝動といったものは共通しているという意識があるからかもしれない。つまり、同じ時期に同じ土に蒔かれた二つ の種が、全く違った花を咲かせたわけである。目に見える部分は表面的な現象に過ぎない。サン・テグジュペリの言葉を借りれば、"本当に大切なことは、目に 見えない"のである。どんな音楽をやっていても、やっていなくても、彼と私の人生の根底は常に"音楽"と"それを共有した時間"によって支えられているの だ。

12/9にギャラリーカフェchef d'oeuvre(シェ・ドゥーブル) で行われた『com+position5』における彼の作曲作品「window music」は、特に印象深いものがあった。三人の演者は一旦会場の外に出て、そこから会場の中に向かって演奏する。聴衆は会場の中に留まったまま、そこ から外の演奏を"聴く"ことになる。会場の中と外は建物の壁と、分厚く大きなガラス窓で仕切られており、当然ながら音は聞こえない。聴衆は三人が演奏する 様子をじっと固唾を飲んで見守るしかない。ある聴者は「音が聞こえたような気がした」といい、私は「ひょっとして音を出してるふりをしているだけではない か?」という疑念にかられる。どちらの反応が正しい間違っているではない。"聞こえた気がした"というのはつまり、前の曲で聞いた音が記憶に残っていてそ うさせたのかもしれないし、実際に外からの音が聞こえたのかもしれない。視覚だけではなく、聴覚にも"残像現象"が存在するのではないかという、新たな発 見がそこにはあった。そういった虚虚実実とした雰囲気の中で、緊張感のある濃密な時間が過ぎていく。道路を横切る車、通行人のいぶかしげな反応、時と共に 日暮れて薄暗くなっていく外の景色、そういったものがまるで彼らの為に用意された小道具であるかのような演出効果を見せ、演奏と渾然一体となっていく。

「window music」における彼らの演奏を一言で言い表わすならば、「時間を音で区切る」行為であると言えると思うが、彼らは演者と聴衆の物理的空間を会場のガラ ス窓を利用して"区切る"ことによって、そこに新たなセグメントを創出させ、『com+position』のコンセプトをさらに一歩先のものへと進化させ ることに成功した。

演奏者が外に、聴衆が中にいるという逆転的な構図は、演奏者と聴衆の関係性、音楽における聴衆のあり方に新たな一石を投じることにもなった。演奏者 と聴衆、音楽においてどちらが主体なのか?通常、音楽の演奏において聴衆は演奏者を観察するという構図になるが、この関係性の逆転によって、聴衆は 「ひょっとして観察されているのは私達の方ではないのか?」という疑念にかられるのである。これはあたかも動物園の檻の中にいきなり放り込まれたような、 スリリングな体験だった。音楽において聴者は必ずしも"受け身"であるとは限らない。いやむしろ、聴者こそが音楽の主体なのではないかという事を、あらた めて確信せざるを得なかった。

もうひとつ面白かったのは、ガラス窓に切り取られた三人の男達の姿が、まるで美術作品のように見えることだった。多くの人が普段聞き慣れているポッ プミュージックやジャズ、クラシックといった音楽が"動的"だとするならば、彼らの音楽は非常に"静的"である。「window music」は、視覚的に時間を表現しているのだ。また、『com+position』がギャラリーを会場に選んでいるのも、そう考えると非常に理にか なっている。つまり、一見意味不明に見えるすべての事柄が、綿密に考えつくされた音楽的思索に裏打ちされることによって確信的な符合性をもち、巧みに構築 されているのである。なんだこの計算高さは!これは彼らからの挑戦状なのだ。この挑戦状を、もっとたくさんの人に受け取ってもらいたい、そう願わずにはい られない。

さて冒頭の言葉に話を戻すと、『com+position』に対する人々の反応は真っ二つに分かれ、時に物議を醸し出すだろう。そういうスリリング でスキャンダラスな要素を、このコンサートシリーズは自ずから内包しているのである。ただ、彼らの音楽を、普段聞きなれた音楽とあまりにもかけ離れている からといって、「分からない」と即断してしまうことができるだろうか?いや、私にはできない。彼らの音楽は一見難解で前衛的・実験的に感じられるが、私に はある意味「とても単純な音楽」に感じられる。音楽というものの存在を徹底的に突き詰めて考え、「音」「沈黙」「時間」「構造」などの音楽を構成する様々 な要素を、これ以上ないというまでにそぎ落とされた形で提示することで、「音楽とは何か?」という問いを、文字通り人生をかけて投げかけ続けているのが、 彼らの活動なのである。"こういうのが音楽"という既成概念を一度一切取っ払って、生まれたての赤ん坊のようなまっさらな気持ちで、彼らの演奏を体験して みて欲しい。まさに、"音を素材とした美術作品を鑑賞するような気持ちで"聴いてみて欲しい。きっとそこから見えてくるものがあるはずだ。理解しようとす る必要もない。ただ感じればいい。私も全てを理解してはいない。「分からないけど、面白かった」と思う人がいれば、またそれも良いと思う。そしてライブ会 場を出た時、今まで聴きなれた音楽や街の雑踏、全ての音が新鮮な驚きをもって耳に飛び込んでくるのに気付くだろう。今まで当たり前だったものが、当たり前 でなくなる。聴覚だけではない、視覚、嗅覚、皮膚感覚といった全ての感覚が鋭敏に研ぎ澄まされ、今までに感じたことのないような不思議な感覚に陥るだろ う。我々が普段生きているこの世界が、いかにさまざまな"音"によって満ち溢れているか、その歓びに打ち震えるに違いない。なぜなら、"音"は"生命"そ のものだからである。それは、彼らがステージで提示する「音」と「沈黙」を感じる濃密な時間を体験して初めて感じられる事柄である。つまり、 『com+position』を体験する前と後で、聴衆の感性は明らかに変わる。それはあたかも、『com+position』というライブそのものがひ とつのセグメントとなって、聴衆の長い人生の中のある時間を分節しているかのようでもある。

kinya

Search
Feeds